社会学を含む学問に共通した特徴のひとつは、問いに対する回答が、万人に理解可能な論証という手続きを経て提示される点にあると私は考える。このことは、個別の学問の論証手続きが、論理学で示される要件にすべて解消されてしまうという意味ではない。各学問で使用される実際の手続きは、論理規則だけではなく、それぞれの学問に固有の基本的仮定や概念、さらには場合によって証明に必要とされる証拠や証拠の有効性の根拠についての考え方などを含む、回答の仕方を律する(discipline)方法論によって具体化され、正当化されるからである。「だから個別科学者の自己省察のためには、彼ら自身の仲間の書いた方法論的諸論究の方が、認識論の立場からみれば不完全な定式化であるにもかかわらず、ある意味では不完全だからこそかえって、専門的な認識論の場合よりもはるかに役立つことが多いのである」[Weber, 1905=1979: 102]。
ところで、問いに対する回答は常に論理的に示せるわけではないし、またそうしなければならないというわけではない。例えば、食物の味や自転車の乗り方のように体験によってしか回答できない場合もある。この単純な事実は、「回答方法の有効性は問いの性質に応じて評価される」ということを教える。したがって、方法の特徴や有効性を問う場合は常に、回答を要求されている問いの性質、すなわち方法論の構想の前提になっている認識欲求が確認されねばならない。この前提を不問にして方法を問うのは無意味なばかりではなく、論点を捏造する危険性をもつという点で有害ですらある。
では、社会学的研究の方法論をその根底で方向づけている認識欲求とは何であるのか。そして、この欲求はどのような論理的な操作によって、またどのような意味で満たされ、どのような意味で満たされないのか。そしてさらに、その結果として私たちは社会学的研究の成果に何を期待することができるのか。
本稿の目的は、これら一連の問題に対して、ごく一部に過ぎないが、具体的な研究事例を素材にして回答することにある。こうした迂遠な回答方法を採るのは、社会学的研究が学問として要求される論理性と経験的な回答の獲得という認識欲求とのあいだにどのように折り合いをつけているのか、あるいは折り合いがつけられていないとすればなぜか、といった抽象的な方法論的な問題を、社会的現実に関する実質的な問題に対して回答を提出している経験的研究が、事実上、どのような形で「解決」しているかを示すためである。このことによって、認識論的な問題としてではなく、具体的な研究活動に関わる実践的な問題として、社会学的研究の方法論がもっている意味を考察したい1。
素材による検討を始める前に、本稿が「社会学的研究」をどのような点から捉えようとしているかを説明しておきたい。なぜならそれが本稿で取り上げる研究事例を選択する基準となるからである。
社会学的研究と呼ぶための第1の基準は、「社会学的」という形容詞の内容規定にあるが、この点は万人が納得するような回答は得られていない。そこで粗雑ではあるが、ここでは社会学的と呼ぶための最小限の基準を、「行為者の選択の産物として集合現象を見ること」という見方として仮設しておくことにしたい。つまり、ここで言う社会学的研究とは、例えば家族の居住形態という集合現象に対して、なぜそれがA地域では拡大家族型となり、B地域ではこれとは異なった核家族型となるのかといった形で問いを立て、この違いを行為者たちの選択(あるいは選択しなかったこと)によって形成された結果として性格づけたうえで、この選び方を左右する人間相互の関係に帰属できる要因を特定化することで回答する点に特徴がある、と考えるということである。
この規定の要点は「行為者の選択」という見方にあるが、この場合、行為の当事者たちが、行為の選択を意識しているということを必ずしも意味しない。むしろ多くの場合、男性がスカートをはかないという性別による服装の差異を当然と見なすように、行為者はみずからが行っている選択を必ずしも意識してはいないからである。その意味で、「行為者の選択の産物として集合現象を見ること」とは、あくまで社会学者が集合現象を論理的に加工するために、行為者自身がもっている見方と区別される形で導入する仮定であると言える。但し、行為の選択可能性を自覚して、選択能力を拡大する主体性の確立は、近代社会がその実現を企図してきた1つの目標でもあったという意味で、この社会学上の仮定の有効性は、社会学の主たる研究対象となってきた近代社会の集合的実践の中で再生産され、強化されてきた歴史的な事実に根を持っていると考えられる[例えば、宮島, 1991]。また、この仮定の性格ゆえに社会学的研究は、研究対象となる人間と研究主体となる人間との間で交わされる行為選択の意味に関する問答という特性を帯びると私は考える。また、こうした社会的現実との緊密な結びつきにより、実際的な研究行為の次元でも、社会学的研究は、例えば今日の調査にあってはプライバシーの問題への配慮が要求され、あるいは調査拒否の増大への対応が必要になるというように、調査を行なう社会状況に応じて調査方法や公表の仕方を変えるなど、社会的現実の変化とともに方法論が揺れ動く結果になるのだと思う。この点は、第2の基準の中で顕在化する。
社会学的研究と呼ぶための第2の基準として、ここでは、研究成果が「経験科学的性格」を備えていることを挙げたい。勿論、経験科学的性格とは何であるかを正面から規定することは、社会学を規定すること以上に難しい。だが経験科学的研究の条件のひとつとして、回答となる解釈や推論を論理的に導き出す際に、少なくとも「経験を記録した資料」2を使用することが必要であるという点を挙げても異論はないだろう。言い換えれば経験科学的研究とは、こうした意味での資料に制約されながら、問いに対する回答となる解釈や推論を論理的に導き出す作業だと考えられるのである。このとき資料は、解釈や推論を形成するために論理的に加工される素材であるとともに、解釈や推論が形成された後ではこれらを正当化する証拠となる。この点は「事後解釈」[Merton, 1957=1961: 86-87]として否定的評価される場合もあるが、いずれにしても経験科学的研究における回答の導出過程が、資料の制約を二重に受けながら論理的に理解可能な形で行われることを規律にしているという点では見解は一致していると考えられる。そしてこの点こそ、いわゆる「思弁的」研究と経験科学的研究とを区別する際の可視的で重要な基準のひとつであると私は考える。またこの点が、「行為の選択の産物としての集合現象」の成立要因を問うという社会学的研究に対して、繰り返し方法論上の難問が提起される淵源であると私は考える。そこで次章では、事例の検討に先立って、この点について論点を整理することにしたい。
経験科学としての社会学的研究の方法論的な第1の難問は、社会学が使用する資料が「誰かの経験」の記録でしかないという点から発生する。つまり、限られた「誰かの経験」に依拠して、どのようにして多数の人間の関与によって成立する集合現象を解明することができるのか、またその前提となる情報はどのようにして選別・抽出され、どのような根拠と手続きによって集合現象に帰属させることが正当化されるのかといった問題である。
このような資料操作上で現われる方法論的な難点は、社会学の根本問題とされる「個人と社会」の関係に対し、「社会実在論と社会唯名論」として定式化されている2つの存在論的前提の問題、あるいは「方法論的個人主義」と「方法論的社会(集団)主義」と定式化された2つの認識論的前提の問題として論じられてきた問題と同型でもある[例えば、青井, 1993]。しかし、社会学の学問的性格について検討する社会学論は一時期には極めて盛んに議論されたが、この種の立論にあっては、資料操作の次元はほとんど言及されず、「……この疑問をめぐる果てしない論争は、社会学の性格を統一するよりは分裂と混乱に導き、いたずらに貧血症的理論化の傾向のみを助長し、経験科学的側面の充実を停滞せしめた……」とも評されている[日高, 1959: 3]。確かにこうした評価は、約半世紀を経て見る戦後日本の社会学の歩みに照らして正当な評価である。だが、このような評価を認めた上で、この種の社会学論があらためて資料操作の次元に対して何を示唆しているかを問うことは今でも無意味ではないと私は考える。なぜなら社会学論とは、「社会的」と呼ぶべき対象を論理的に把握するために必要な諸前提を論じていると考えられるからである。問題は、「貧血症的理論化」と形容されるほど抽象化された議論を、如何にして具体的な資料解読の方法論として読み直すことができるかという点にある。こうした読み換えができれば、社会学の課題を、諸個人から収集する類型化された資料の集計技法の問題に還元してしまうような経験科学的貧血症への解毒効果が期待できると思うからである。諸個人の経験の記録からどのようにして「社会」を取り出すことができるかという問題は、資料操作の次元でこそ問われる必要がある。
第2の難問は、第1の難問に含意されていることではあるが、経験を記録することに関して発生する問題である。経験の記録とは、経験を記録する行為を前提にしている。そして、経験の記録には、集合現象を成立させている行為について「研究者が作成した記録」と集合現象を成立させている当事者である「行為者自身による記録」とがある。そこで、この記述者が異なる2種類の資料をどう位置づけ、どのような根拠で集合現象の解明に対して有効な資料として使用するかという問題が発生する。この問題自体は、社会学に限らず民族誌の作成にあって、「経験を記録する者と記録される者」とが異なっている場合に「記録されるのは誰の経験なのか」という形で問われている課題とも重なる[Geertz, 1988=1996]。しかし、集合現象を研究対象とする社会学の場合、先に述べたように研究対象とする集合現象自体をどうすれば記録できるかという難問が加わる。この問題をより端的に言えば、行為者が意識している集合現象と研究者が有意味な集合現象として捉える範囲は、必ずしも一致しないという問題である。その意味で、社会学的研究にとって、経験の記述という問題は、独自な方法論的な正当化を要求することになる[例えば、桜井, 2002]。
こうした資料に関する方法論的な問題は、いわゆる社会調査方法論の領域に属する問題でもある。そこで、社会学的研究に対して社会調査のもつ意義と課題に触れておきたい。→続きを読む(頒布案内)